この写真は下北沢の王将がある「あそこ」の写真である
俺はフィルムの昭和感が好きで、良くフィルムカメラで写真を撮る
断っておくが、俺はエモかぶれの盲目サブカルチャラーには絶対になりたくないと思っている。ミーハーなのではなく、本当にこの味が好きなのだ
つい最近、ダウ90000単独公演「また点滅に戻るだけ」を見た
前からダウ90000を見て感じていた事なのだが、彼らのコントを見ると、うっすらと悔しい気持ちに苛まれる
自分よりも秀でている才能に嫉妬するような単純な感情ではない
そもそも俺はもう今年30歳になるし、そのような感情は今となってはあまり湧き上がってこない(少し前まではかなりあった)
ではなぜ悔しい気持ちになるのか。この公演を見てやっとわかった
彼らのコントは、固有名詞の使い方が絶妙なのである
わかる人にはわかるけど、わからない人にはわからないギリギリを攻めている
それがわかる自分が、あたかも洗練されてる人間のように錯覚してしまう。優越感の落とし穴に落とされてしまうのだ
具体的には
ガキ使のサイレント図書館の後のモデル、スマホケースのテラリウム、タモリ倶楽部のラスト見た? 等
優越落とし穴に落とされた・・・やられた・・・
という「悔しさ」に近いと俺は認識している
これは隠語(ジャーゴン)とも言えるだろう。踏み絵のような役割を果たし、この言語がわかる人は自分たちの文化がわかる
この言語がわかる人はある程度センスもってるよね??
これのこの感じわかるよね?みたいな事である
(そういった意味では、作り手にとって作品は、同じ価値観をもった仲間を探すツールなのかもしれない。作家は皆わかってもらえる友達を探している??)
また、夜の公園のベンチ、プリクラを切る机 等、エモさをちょうど良くちらつかせてくるところもまたむかつくのである
(上の写真の左端に写り込んでいるオレンジ色の光漏れも、いわゆる「エモ」だろう)
むかつくというのは、ダウ90000に対してではない
エモに抗えない自分にむかついてしまうのだ
また、この「エモ」と「絶妙固有名詞」はサブカル色を孕んでいる点にも注意して欲しい
ダウ90000が好きなんて中途半端に言った暁には、盲目サブカルチャラーを嫌う1群から「あーサブカル好きな人ね」と揶揄されてしまう危険性がある
それだけは絶対避けたい
俺は真に作品を楽しんでいるのか、単なる盲目サブカル好きなのか
この線引きには注意して、触れる作品を選んでいる
盲目サブカルチャラーには絶対になりたくないので、このように理屈をこねて記事を書いてみた
ここまで書いた上でならもう言っても大丈夫だろう
ダウ90000結構好き