批判的に見る勇気 アートとフェミニズムは誰のもの?

村上由鶴さんの「アートとフェミニズムは誰のもの」を読んだ

私が好きな作家、武田砂鉄さんがラジオでこの本を紹介していたので、ミーハー心で読んでみたのだ

そんなミーハー野郎をアートとフェミニズムは受け入れてくれるのか?そんな事を考えながら読んだ

読んだ感想はこうだ

アートとフェミニズムを学ぶことは、批判的に見る勇気を養い、情報過多の現代を生き抜くヒントになる

また、作品を多角的に見る視点が養われるため、エンタメや文化をより楽しく味わうことに繋がる

アートとフェミニズムって、クールなスキルだな、これを知った俺ってちょっとクールだな

と思ったので、今回はその気づきについて記したいと思う

アートとフェミニズムのタコツボ化

アートやフェミニズムについて中途半端に触れようものなら、批判をくらいそう

その業界の人から大バッシングをうけそう

そんなイメージを僕も持っていた

本書ではまずこのイメージについて、「それはたしかだ」とまるっと認めるところから始まる

「アート思考」というものが近年注目されている

アート思考とは

「自分だけの視点で物事をみて、自分なりの答えを作り出す考え方」

「既成概念や固定概念を打破し、自分の思考や感情から新たな課題を見つけていくクリエイターやアーティストが実践している思考法」

というものだ

これはこれで良いのだが

"アートやフェミニズムの知識をつければつけるほど、固定概念や既成概念でがんじがらめになってしまう人が少なからずいる"

それにより、フェミニストやアートワールドの住人には、初学者や知ったかぶり人間に厳しい人も一部存在するのだという

筆者はこの状況に注意喚起している

アートやフェミニズムは

性差別や人種差別、家父長制を批判することで価値を見出すことができるのに

そういった人たちを頭ごなしに否定するのは

権威主義を批判しているアートやフェミニズムが、権威主義に染まってしまっているとも言えるのではないかと

アートとフェミニズムのタコツボ化(排他的で一部の知識人しかわからないものとされているが起きてしまっている と

アートとフェミニズムは

「みんなのもの」になりうるエネルギーを持っているのだと述べている

だから二つともみんなが理解可能な物だから、怖がらないで正しく学んでいこうよ そーいう本であると私は認識している

アート全然わからない

正直美術館に行ってもその作品の良さがわからない。ではそういう人たちはアートを見たり語ったりする資格はないのか

無論そんなことはないのである

むしろ勉強していなければ(背景をしらなければ)わからなくて当然なのだ

というのも

”アートの価値や良さをが生じるのは、「個人的な感動」のむしろ逆であり、歴史的な意義や新しさ、社会との関係性など、共有可能なその作品固有の事情に対してなのだ” 

つまり「この絵のここ、私は感性的に好き」というよりは、歴史や背景を学ぶことがその作品の良さを知ることになるのだ

もちろん「私は感性的に好き」という、晴れよりも雨が好きなポエム野郎よろしく な楽しみ方もあるのだが、歴史や背景を学ぶことの方が、正しくアートの価値を知ることができるのである

つまりアートは、感覚的に良いとわからなくても良いのだ

むしろその方が自然とも言える

感覚でアートがわからない僕のような人間でも、アートを楽しむことができるし、論じることだって可能なのだ

「ゴッホより普通にラッセンが好き!!はい!!」

とか言ってる場合ではないのである

アートの価値を知るというのは歴史を知るということなのだ

アートの歴史を携え、理論武装し、永野とポエム野郎を突き飛ばしてルーブルに乗り込もう

フェミニズムって物騒

フェミニズムもアートと同じく、「にわか」に厳しそうなイメージである

そのイメージもやはりその通りで、一部のフェミニストでは「こうあるべき」という排他的な人もいる

“一部のフェミニストの間では、すべての男性や、あるいは声をあげない(あげられない)あるいは性差別の経験がない(と感じている)女性に対する敵対的な意識が生まれてしまっているのです”

“フェミニズムとは、その言葉が真っ先に想起させるような最前線の行動だけがすべてではなく、あるいは、「フェミニスト」と名乗ることでもなく、まずは」「批判的に考える勇気」を持つことなのだ。ということです”

このように、知ったかぶりまんに厳しい人はやはりいるのだが、フェミニストは本来そーいうものではない

フェミニズムの定義は

“性差別をなくし、性差別的な搾取や抑圧をなくす運動のことだ”

男性や、声をあげていない人だって

フェミニズムの火を心に灯している人はいるのだ

トークニズム

少し複雑なニュアンスの差別についても解説していたので取り上げようと思う

“「トークン」という言葉は最近では「代用貨幣」や「暗号資産」という意味で使われており

人種差別の文脈では「交換可能な人数合わせのマイノリティ」という意味で使われている

差別を受けてきた人を、交換可能なお飾りにして、そうした人たちを包摂しているかのようにみせる表向きだけのは差別活動の態度を「トークニズム」という”

例えば「あなたは人数合わせの『お飾り』黒人フェミニストで、白人女性に物申すようなら必要ない」というような関わりがトークニズムといえる

トークズムの概念を聞いて、私が思い出したのは、リトルマーメイドの実写版映画についてだ

主役は黒人の女性が演じており、違和感を覚えた人も多いのではないだろうか

’’反差別の考え方は、「被差別的な属性」や「違い」自体をなくすべきものとするのではない。逆に言えば、健常者や白人であること、そして男性であることには特権があるが、健常者や白人や男性であることそれ自体はやはり責められるべきことではないのである’’

この文章はとても心に残った

黒人であることも、白人であることも、男性であることも、女性であることも

欠点ではなく、特権なのである

この考え方は非常に心に残った

「黒人を起用してますよ。どうですか?」感が臭いまくってるリトルマーメイドに違和感を強く覚えてしについては、トークニズムの観点から説明することもできる

マイクロアグレッション

本書では触れていないが、昨今マイクロアグレッションという言葉もよく聞く

マイクロアグレッションとは

特定の属性の人に対して、固定観念や先入観、勝手な解釈をもち、無意識に発した言葉や態度が、否定的なメッセージとなり、相手を傷つけたりストレスを与えることだ。

「それくらいのこと」ではなく、このような言動が誰かを傷つけることがある、ということへのの想像力を持つ必要があるのだ

トークニズム的な観点でみると、リトルマーメイドの黒人起用は表層的に見えるし

黒人の人にとっては逆に差別的に感じるかもしれない

無意識のうちに自分の行動や発言が、差別に繋がっているかもしれない

この意識を持つことが重要だ

マイクロアグレッションの観点から見ても、リトルマーメイド問題を説明できるだろう

批判的に考える勇気

そろそろまとめに入るが

本書でもっとも強調されているのはこれだ

’’この社会でもはや前提となってしまっているような差別的な社会への構造に疑いを持つための勇気。それが、まずは自分、そして自分の身の回りの抑圧されている人々を差別や思い込みから解放へと導く第一歩となる。そう考えると、「批判的に考える勇気」は、それがフェミニズムでなくても重要であるし、アート以外の場所でも、自分をより自由にするための勇気だとも言えるのではないでしょうか’’

アートとフェミニズムの考え方を学ぶことは、批判的に考える勇気を学ぶことに繋がるのだ

固定概念を打ち破るようなアート作品やフェミニズム運動は

とても皮肉が効いてて味わい深いし、かっこいいし、良くぞ言ってくれた!!という要素がミソなのだ

(ある種爆笑問題の時事漫才に繋がるものがある)

批判的に考える勇気を持つ事は

情報過剰社会を生き抜く必要不可欠なスキルであり

クリエイティブ関係の人はもちろん、ビジネスマンにも必要不可欠なスキルであろう

みんなで常識を常に疑っていこうじゃないか

ジャニー喜多川氏性加害問題の謝罪会見で、イノッチが「どうか落ち着いて、子供も見ていますので」と記者をさとし、会場に拍手が起こったというのが話題になっているが(トーンポリシングだとバッシングをうけている)

その会場の雰囲気に同調して拍手をしてしまうような人は、『アートとフェミニズムは誰のもの』を強くお勧めしたい

まずは私たちの常識を、疑うことから始めよう

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